秩父ワイン物語
「源作印ワイン」は、地元・秩父の葡萄だけを使い、自然のままに醸されたワインです。昭和の初め、寂しくなりゆく山あいの里で「自分たちにできることは何か」と父子が考えぬいた末に、葡萄の苗を植え、ワイン醸造の道を一から切り拓きました。
この小冊子は、そんな秩父ワインのルーツを皆さまに知っていただくために綴られたものです。それは、この奥秩父に生きた一人の庶民の歴史でもあるからです。どうか、源作じいさんの足跡をたどってみてください。
明治二二年(一八八九)一二月、浅見源作は埼玉県秩父郡両神村の農家に生まれました。秩父鉄道の終点からさらに山あいへと分け入る、奥秩父の小さな村です。
浅見家は、奥秩父に伝わる剣術甲源一刀流の系譜につらなる家柄。源作も七歳から朝な夕なに竹刀を振り、目録を授かるほどの腕前となりました。小柄ながら負けん気が強く、常に新しいことへ挑む――その気質は、生涯変わることがありませんでした。
源作は無類の本好きで、生まれついてのアイデアマンでした。子どもの頃に愛読したのが『ロビンソン・クルーソー漂流記』。無人島で山羊とぶどうを頼りに生き抜くその物語に、源作は心を奪われます。まずは山羊を飼う「山羊園」を始めました。残る半分の夢が、ぶどうとワインだったのです。
昭和八年(一九三三)、二十歳になった長男慶一が「父ちゃん、ぶどうをやろうよ」と切り出します。やせた山あいの地でも、ぶどうはよく実る。アイデアの慶一、行動力の源作。二人は名コンビでした。
頼りは一冊の本――川上善兵衛の『葡萄全書』。全三巻で三六円、いまの百万円以上にあたる大金でした。それでも「よし、その本を買おう」。慶一は源作の自転車にまたがり、秩父から東京まで片道およそ一三〇キロを走ります。野宿用の座蒲団と雨合羽、サトの握り飯を積み、神社のお籠堂に泊まりながら、二日がかりで待望の一冊を持ち帰りました。
さらに源作は「この本の先生に、一度会ってみたい」と、返事も待たずに上京します。『葡萄全書』の著者で、“日本ワインぶどうの父”と呼ばれる川上善兵衛を訪ねたのです。たいした学問も受けていない秩父の一農民。それでも、ワインに懸けるひたむきな情熱が川上の心を動かし、源作の疑問の一つひとつに、懇切丁寧に答えてくれたといいます。
本に頼り、試行錯誤を重ねる日々。フランス製の搾り機を取り寄せ、木桶を据え、すべてを自家製・手づくりでまかなう、ささやかなワイン造りが始まりました。
昭和一五年(一九四〇)八月、ついに埼玉県で初めてのワイン醸造許可を取得。「秩父生葡萄酒」として売り出します。しかし時節柄、ワインはさっぱり売れません。それでも源作は、決してあきらめませんでした。
やがて戦争が、深い影を落とします。ぶどうから採れる酒石酸は、潜水艦の音波探知機(ソナー)などに欠かせない軍需物資。ワイン造りはいつしか「軍需産業」に組み込まれ、「ブドーは科学兵器」と謳うポスターまで作られた時代でした。
時代に翻弄されながらも、源作が見つめていたのは、人が味わうための、自然のままのワイン。その一杯のための火を、決して絶やしませんでした。
昭和三四年(一九五九)、来訪したフランスのカトリック神父が、源作ワインを「本場フランスと同じ味」と絶讃。これを契機に、その評価は静かに高まっていきます。
昭和五〇年(一九七五)には、作家五木寛之が源作ワインを称え、雑誌で紹介。マスコミの取材も、にわかに増えていきました。商売を大きくせず、ただ本物の味を守り続けた――その積み重ねが結んだ果実でした。
昭和四三年に妻サトを、翌四四年には頼みとする長男慶一を相次いで失い、源作は深い悲しみにくれます。それでもワイン造りの手を止めることはありませんでした。
昭和五〇年、源作の願いを受けて、孫夫婦の島田安久・カツがワイン造りを引き継ぎます。そして昭和六〇年(一九八五)六月、源作は九五歳でその生涯を閉じました。最後まで、工場の入口に灯をともしに行こうとした、その途上のことでした。
そして現在は、安久とカツの息子である島田昇が、その造りを受け継いでいます。源作じいさんが父子で夢みた一杯は、いまも世代から世代へと手渡されています。
一杯のワインに、奥秩父の庶民の歴史が宿っている。
源作じいさんが父子で見た夢は、いまも秩父の地に受け継がれ、グラスの中で静かに息づいています。寂しくなりゆく山里で「自分たちにできることは何か」と問い、自然のままに、健康なワインを――。その想いの結晶を、どうかゆっくりと味わってください。
原典『秩父ワイン物語』(一九九四年・島田安久 編)より構成
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